世界各国での選手経験を活かし、日本でコーチとして挑戦したい
My Life

世界各国での選手経験を活かし、日本でコーチとして挑戦したい

B.LEAGUE B1所属 大阪エヴェッサ
トップアシスタントコーチ

ルーベン・ボイキン

アメリカ合衆国出身。1985年6月20日生まれ。ノーザンアリゾナ大学卒業後、プロバスケットボール選手としてのキャリアをポーランドでスタートさせる。以降、イタリア、ギリシャ、ポーランド、秋田ノーザンハピネッツ、ドイツ、バンビシャス奈良、アースフレンズ東京Z、サンロッカーズ渋谷と、自身の可能性を追求し、世界各地のチームでキャリアを積み、2018年に現役を引退。2019年から大阪エヴェッサのアシスタントコーチを務めている。

なりたい自分像

心を癒してくれるバスケットボールに夢中になり
NBA選手をめざした

6歳上の姉の影響でバスケットボールを始めたのは5歳のときです。フットボールや野球は遊ぶ程度でしたが、バスケットボールは“自分を表現できる”ことが魅力で、すぐに夢中になりました。練習していてもつらいと感じたことは全くなくて、逆にバスケットボールをすることが自分にとっての心の癒しになっていました。当時はNBA選手になることが夢で、特にケビン・ガーネットの大ファンでした。

高校生のときは、ポイントガードからセンターまで全てのポジションを経験しました。リバウンドを取ってそのままボールをプッシュしたり、ゴール下でポストアップして攻撃をするなどオールラウンドなプレーをしていました。

大学卒業後は多くの国でバスケットボールをしてきましたが、今、振り返って総合的に自分のプレーをABCで評価するとしたら「C」でしたね。すごく良いシーズンを過ごすこともあれば、逆に悪いシーズンもありましたから。プレーに波があった理由としては、コーチとの相性の良し悪しも影響していたのではないかと思っています。

ヨーロッパ、日本、世界各国でプレーした経験

厳しさを知ったポーランド、自分のレベルが上がったイタリア
集大成となった日本

大学卒業後は、ポーランドのチームでプロ生活の第一歩をスタートさせました(2007-08シーズン)。唯一のオファーだったこともあり、プロとしてのチャンスを掴むために行くことにしました。ベテランの選手が多く、さまざまなことを学ばせてもらえましたし、ルーキーイヤーにオールスターゲームに選ばれたのも良い経験でした。一方で、試合で活躍できなかったり、ポジション争い、オフコートでの問題行動があれば即解雇されることもあるなど、プロの世界の厳しい現実も知りました。実際、私がポーランドにいたのは1シーズンだけでしたが、その間、12人もの選手がチームを去っていきました。

翌2008-09シーズンからは、より高いレベルに挑戦するためイタリアに渡り、3シーズンプレーしました。ポーランドでは各チームに6~7人のアメリカ人選手が在籍していましたが、イタリアでは2人までという規定があったため、自然と求められる役目に対して責任が重くなり自覚も出てきました。また、リーグには元NBA選手がたくさんいたことで、試合展開やプレースタイルがスピーディーで、テンポが速いバスケットボールを学ぶことができ、イタリアにいた3シーズンで自分のプレーのレベルが上がり、プレーヤーとしての幅も広がったと思います。2011-12シーズンからはギリシャでプレーしました。イタリアでの3シーズンは本当にいい経験をしましたが、『変化が必要だ。そのためには新しい場所と環境でプレーしなければ』と思い、イタリアを離れ、ギリシャのチームに移籍しました。このギリシャでの1年間はバスケットボール選手として最も楽しい時間を過ごすことができたと思っています。オンコートではチームメイトとのコミュニケーションや、1on1では激しい競争でお互いにスキルを高め合ったりしましたし、オフには一緒にご飯を食べたり、ビデオゲームをしたり、冬にはジェットスキーをしに行ったりと楽しい時間を過ごすことができました。

ヨーロッパでプロ選手として多くの経験を積んだ後、2013年から主戦場を日本へと移し、最初の2シーズンはbjリーグの秋田ノーザンハピネッツでプレーしました。弟のジャーマルが2011-12シーズンに岩手ビッグブルズでプレーしていて、「日本はいい国だよ」と聞いていました。当時の秋田ノーザンハピネッツには富樫勇樹や田口成浩、大塚裕土といった現在も活躍しているいい選手がいて、彼らとは今でも交流があります。またブースターの応援もすごく熱くて、サポートしてもらえました。それに秋田のバスケットボールはアメリカのスタイルに近く、自分の役割が明確となってチームにフィットできたのも良かったと思います。その後、B.LEAGUEのバンビシャス奈良、アースフレンズ東京Z、サンロッカーズ渋谷でプレーし、2018年に現役を引退しました。
日本での選手時代は、日本の“走るバスケ”と、ヨーロッパで学んできた“戦略的なバスケ”を融合したスタイルで、楽しんでプレーすることができていたと思います。

これからの「なりたい自分」とは?

日本で念願だったコーチの職を得て
次にめざすはヘッドコーチ

引退後はコーチになろうと思いアメリカへ戻り、ヒューストンで暮らすことにしました。ヒューストンにはNBAチームのヒューストン・ロケッツがあり、大学もたくさんあるので、すぐに職につけると思っていたからです。しかし、全然見つけることができず、そこでひとまず、中学生のコーチ、高校生のためのビデオ分析、審判、運転手などいろいろな仕事をしました。
そのような状況のときでした。当時の大阪エヴェッサの冨山晋司アシスタントGM(現・男子日本代表テクニカルスタッフ)から「大阪で一緒にコーチをしないか」とFacebookに連絡をもらったのです。またバスケットボールの世界に戻ることができる! と思い、すぐに「やります」と返事をしました。

今のB.LEAGUEは、日本人選手の質も上がり、コーチングのレベルもかなり向上していると思います。昔はチーム構成としてヘッドコーチ(HC)が1人、アシスタントコーチ(AC)が1人ということが多かったのですが、今ではスタッフの数も増え、選手のスキル向上をサポートするコーチやビデオ分析の専門家など、多くの人がチームに関わっています。そういう面でもB.LEAGUEの成長を感じています。

今後の目標は、HCになることです。チームのリーダーとして、自分はどれだけやれるか試してみたいと思っています。コーチにはいろいろなタイプがいて、自身の戦略や戦術を遂行することを選手に求めるコーチもいます。しかし、私が一番大事にしているのは、選手が自分らしくいられるようにすること。もちろんハードに練習することやある程度のチームのルールは守ってほしいというベースはありますが、そのために選手のポテンシャル、選手自身の力を最大限に引き出せるよう適切な環境を提供するのが私たちコーチの役割だと思っているからです。

大阪にはもう5年も住んでいますし、生活する上での問題はありません。その一方で家族と離れて暮らすのはとても寂しいのですが、息子が高校に入学するくらいまで、あと4~5年は日本でコーチとしてのキャリアを重ねたいと思っています。
そして、今後も何かしらの形でバスケットボールにかかわり続けたいと考えています。

大阪はとても好きな街!
好きなアメリカ料理「チキンエンチラーダス」。トルティーヤで具材を包み、唐辛子のソースをかけたもの
日本食では「うどん」がお気に入り
コーチ仲間は切磋琢磨できる大切な存在
コーチ職の必需品である本。
選手やチームのデータ分析とともに、さまざまな分野からのインプットも重要
休暇は家族と過ごしたり、散歩をしたりする時間が、 憩いのひととき

※2024年12月に取材した内容に基づき、記事を作成しています。肩書き・チーム名称等は取材時のものとなります。