車椅子でアメリカ留学!<br>「生きる」ことを伝えたい
教育事業

車椅子でアメリカ留学!
「生きる」ことを伝えたい

電動車椅子サッカー
横浜クラッカーズ
代表・監督 平野 誠樹さん

平野 誠樹(ひらの・もとき)さん(38歳)

1979年神奈川県横浜市生まれ。3歳の時に筋ジストロフィーを発症。1997年、高校2年生の時に、国際交換プログラムを利用してアメリカ・オレゴン州に短期留学。高校を卒業後、ヒューマン国際大学機構(HIUC)を介し、アメリカ・カリフォルニア州サンディエゴへ留学。語学学校を経て、短期大学グロスモント・カレッジを卒業した。

帰国後は国内外問わず、電動車椅子サッカーの普及に努める。現在は、横浜クラッカーズの代表および監督。電動車椅子サッカー元日本代表候補。JPFA(日本電動車椅子サッカー協会)ドリームマスター(伝道師)。

筋ジストロフィーという難病で身体は不自由ながらも、心は自由にアメリカを目指した青年がいた。その人の名は平野誠樹さん。日本を飛び出し、電動車椅子サッカーをきっかけに世界を結びつけた平野さん。長年の主治医である川崎ヒューマンクリニック院長の小野寺直樹氏は平野さんを「私たちの誰より生きることに真摯に向き合っている」と評する。平野さんに、アメリカ留学までの経緯やライフワークとなった電動車椅子サッカーについて聞いた。

アメリカに行きたい!車椅子青年の決意

3歳の時に筋ジストロフィーを発症し、中学生のころから車椅子生活を続けていた平野さん。当時、「車椅子=障がい者」という、ある意味”特別な”存在として見られることの多い日本の社会に閉塞感を感じていた。高校卒業後、一度はスポーツジャーナリストを目指し、専門学校へ問い合わせたが、「エレベーターがないからとか、障がいを理由に断られました」(平野さん)。そこで、高校時代に短期留学で訪れたアメリカを思い出した。「アメリカではバリアフリーが当たり前でした。日本にいたら自分の個性は生かせない。日本を抜け出していっそアメリカに行きたい、行こうと思い立ったんです」。そんな時、偶然1本の電話がかかってきた。それが、ヒューマン国際大学機構(HIUC)からの電話だった。

現在、ヒューマンアカデミーが運営するHIUCは、海外留学をサポートする機関として1990 年に開校。当時から、数多くの留学生を送り出していた。海外留学経験のある職員や教師が多く、当時、サンディエゴ出身のアメリカ人校長の下、障がい者に対する理解もあった。ただ一つ、平野さんの入学には条件があった。それは「一人で通学できること」。「普通は家族と一緒に来てもらえる?と言われると思うのですが、この学校は違いました。それで、じゃあ行きます、と。満員電車に揺られ、渋谷駅の乗り換えも駅員さんの力を借りた。それでも、留学したかったので頑張れました」と平野さんは当時を振り返る。

HIUCには留学先が決まるまで、1年半ほど通った。英語の授業は海外からのネイティブ教師が行い、「日本にいながら、アメリカにいるような授業が受けられた」と留学準備にふさわしい環境が整っていた。平野家には、ひとつ目標を見つけたらとことんやり抜く、という教えがある。「今、満員電車に乗れと言われたら正直出来ないと思う。その時は留学という目標に向かってすごいパワーが出ていた。宿題も結構あったと思うけれど、大変だったという感情は残ってないですね」。1999年11月、ついに留学を実現させる。行先はアメリカ・カリフォルニア州サンディエゴ。平野さんの20歳の誕生日の1カ月前だった。

電動車椅子サッカーが繋いだ国際的な絆

平野さんが電動車椅子サッカーに出会ったのは留学前、17歳の時。地元横浜のチーム「横浜ベイドリーム」に参加していた。留学後はプレーできないと思っていたが、偶然にもサンディエゴにも電動車椅子サッカーのチームがあることを知る。まず、そのスピードに驚いた。日本では法令の関係で時速6キロまでのスピード制限があったが、アメリカは制限なし。「いい意味でクレイジーだと感じました。スピード制限がないスリルがたまらなくて」と、どっぷりはまり、2000年9月、サンディエゴのチーム「ハイボルテージ」に正式加盟した。

チームに参加し、平野さんの実力が認められると、どうしてそんなに強いのかと聞かれるようになる。「日本でもプレーしていたし、日本にも強いチームがある」と話すと、アメリカの大会に招待しようと話が進んだ。「以前、日本でライバルチームだった東京FINEの高橋弘氏に連絡を取ると、ぜひ行きたいと…」と、2001年の全米選手権に日本チームの参加が決定。なんと、その大会で日本チームが優勝してしまう。平野さんはハイボルテージの一員としてプレーし、日本戦では敗れた。「日本にはスピード制限がある分、スピードに頼らない技術があった」と振り返るが、それは悔しくもあり、嬉しくも感じたという。

帰国、そしてチーム監督に

2002年12月、留学生活を終え、日本に帰国した平野さんは電動車椅子サッカーで世界を繋げる可能性を感じていた。2004年6月には、アメリカ・インディアナ 州のインディアナポリスで開かれた国際大会で日本チームの選手として渡米、優勝を果たす。2005年から07年にかけては、国際的なルール作りに奔走した。「アメリカで国際的な繋がりが持てたことで、自分の役割が見いだせた」と国際委員会準備委員として活動。そして、2007年10月に、念願だった電動車椅子サッカーの第1回ワールドカップが東京で開かれた。残念ながら、体調不良もあり日本代表選手としてプレーすることはなかったが、「できることはやった」と悔いはない。

一方、帰国前から所属していたチーム「横浜クラッカーズ」でも選手として活躍。2008年には監督に就任した。「やるからには上を目指したい。1%の可能性がある限りは、そこを目指さなければだめだと思う」。チームは今年、2013年以来4年ぶりに全日本選手権で優勝した。「ある程度の期間で結果を出せなかったら辞める時だと思っていました。今回の優勝は本当にうれしかった」と平野さん。苦しみながらも大会MVPの活躍をしたチームメンバーをはじめ、全員に直接、言葉で謝意を伝えた。「結果は周りの人のサポートのおかげだと思う。思いは絶対に伝えなくてはいけないし、忘れてはいけない」。

平野さんには、試合前に必ず行う儀式がある。車椅子の背もたれを倒し、天井を見上げるのだ。「病気などが原因で、ここに来るまでに亡くなってしまった方がいる。その人たちの顔を一人ひとり、ゆっくり思い浮かべます。今の自分たちがサッカーをできるのも、先人の頑張りであることを忘れてはいけないし、人生に関わったすべての人たちに感謝の気持ちをもって試合に臨みたい。そうでないと勝っても筋が通らないと思う」。そして、平野さんのチーム、横浜クラッカーズが目指すのは世界一のクラブだ。

生きることに意味はある

平野さんは今年、一般社団法人日本電動車椅子サッカー協会(JPFA)からこれまでの功績が讃えられ、ドリームマスター(伝道師)に選ばれた。「普通に明日があると思って生きていない。”生きる”ということは当たり前でないことを伝えることが、ひとつの役割だと思っています」。想いは伝わると信じている。「私の話で、なるほどと思ってもらったり、勉強になったり、”こんなクレイジーな人がいたんだ”でもいいので、何かを伝えていきたい。かけらでもいいから、伝えることでこの社会に残っていくものだと思うんです」。

あの時、HIUCに通っていなかったら、アメリカに留学していなかったら、そして電動車椅子サッカーに出会っていなかったら――。「そう思うと、正直ぞっとします。ただただ、いい人生を送ってきたと単純には思っていませんが、自分がやってきたことは何も後悔していない」ときっぱり言い切る。夢を見つけて、限界まで頑張った経験があるからこそ、「夢がこぼれてもその過程が次の目標につながる」のだ。「生きる」。シンプルだが、このメッセージに深い想いが込められている。

平野さんの所属する「横浜クラッカーズ」のホームページはこちら

※2017年10月に取材した内容に基づき、記事を作成しています。肩書き・役職等は取材時のものとなります。
※写真はご本人提供。