今や日本を代表するポップ・カルチャーとなったマンガやアニメ。2015年9月に開校のヒューマンアカデミーヨーロッパは、欧州初の日本のマンガ・アニメの専門校です。同校をゼロから立ち上げ、事業として道筋をつけた馬渡幸恵(Human Academy Europe SAS代表)が、その足跡と今後を語ります。
入社8年目で福岡から東京へ。受講生が求める「学び」を追求する
「私の場合、4年ごとに転機が訪れるみたいです」と、馬渡は自身のキャリアを振り返ります。教育に関心があった馬渡は、若手社員が活躍する風通しのよい社風にひかれ、2002年に新卒でヒューマンアカデミーに入社。総合学園ヒューマンアカデミー福岡校の入学事務局で学生募集に関する業務に4年ほど携わった後、学務室に異動。学校運営に関する業務を幅広く経験しました。
入社8年目の2010年、馬渡のもとに1本の電話がかかってきます。
馬渡 「当時のヒューマンアカデミー全日制教育事業部の事業部長から『東京で商品開発の仕事をしてみないか』というお誘いの電話でした。ちょうど、今の仕事を後輩に引き継いだら新しいことに挑戦したいと考えていたタイミングだったので、東京に行こうと決断しました」
2010年4月から、馬渡はヒューマンアカデミー社会人教育事業本部で社会人向け講座の商品開発に携わります。新規の講座を企画したり、既存の講座の改訂・リニューアルを行なったりするだけでなく、講座のニーズに対するマーケティング調査からカリキュラム内容の検討、監修者と二人三脚でテキストやテストを作成するなど、業務は多岐にわたります。
「講座に100点満点はない。時代に合わせて、社会の要請や受講者が求める学びを提供できるよう、アップデートしていかなくてはいけない」と考える馬渡が商品開発で重視したのは、ヒューマンアカデミーならではのオリジナリティーを出していくことでした。
そんな馬渡のポリシーが端的に表れた仕事が、チャイルドマインダー講座のリニューアルです。チャイルドマインダーとは家庭的な保育サービスを行なう専門家のことで、発祥地のイギリスでは国家職業資格として認定されています。
そこで馬渡は、ヒューマンアカデミーのチャイルドマインダー講座のカリキュラムを、イギリスの学習基準や評価法に合わせる作業に着手。イギリスの資格認定団体から査察を受け、本国と同等の学習内容・到達度をクリアしているとの認証を受けました。
馬渡 「認定1期生を記念して英国大使館で認定式を行なうことができ、受講生からも喜んでいただきました。そんな風に、受講生や拠点から必要とされるものに応えられたときは、とても嬉しかったですね」
フランスで学校を立ち上げるー思いもよらないチャンスの到来
上京して4年目の2014年、再び馬渡に転機が訪れます。新規事業の立ち上げなどを担う戦略部門から、声がかかったのです。
当時のヒューマンアカデミーは、2013年12月に日本のアニメーション技術を学ぶ学校をタイに開校するなど、海外進出に力を入れていました。日本のマンガやアニメの人気が高いフランスでも専門校を開校する計画が持ち上がり、その責任者として、馬渡に白羽の矢が立ったのです。
馬渡 「なぜ私なのかと尋ねると『学生募集や学校運営、カリキュラム開発、海外資格の認定など、外国で学校を開くために必要なことを一通り経験しているから』という答えが返ってきました。その言葉を聞いて『ぜひお願いします』と即答しました」
言葉の通じない外国で新しい学校を立ち上げるというのは、相当プレッシャーのかかる大仕事です。しかし、馬渡には躊躇や不安以上に、大きな夢と期待がありました。
馬渡 「『自分が理想とする教育事業を手がけてみたい』ということを、将来の目標として漠然と考えはじめていたときだったんです。新しい学校を立ち上げるというのは、まさにぴったりの仕事。ぜひ挑戦したいと思ったんです」
以降、フランスでの開校準備に向けて怒涛の日々がはじまります。2014年3月からマーケティング調査を開始し、在日フランス大使館の貿易投資庁(フランス進出支援機関)とやりとりしながら、進出候補地を検討。4月にはタイの専門校を約1カ月間視察し、海外で学校を設立・運営するためのノウハウを吸収。6月にはフランスへ飛び、現地を回って候補地を2都市に絞りました。
2014年8月にはフランス中部の都市・アングレームを候補地に決定。アングレームは欧州最大のコミックフェスティバル「アングレーム国際漫画祭」の開催地であり、多数のアニメーションスタジオが集積するなど、マンガ、アニメ、ゲームなどの産業が盛んな都市。いわばフランスの”マンガの都”です。
馬渡は9月に再調査のため渡仏し、校舎となる物件の選定や、ディレクター(校長)や講師を務める人材のリクルートに奔走。そして12月、フランスで学校運営法人を設立したのです。
ひとりの学生からのクレームが、マンガ教育を深く見つめ直すきっかけに
日本では4月が学校の入学時期ですが、欧米では9月入学が一般的です。
2015年9月のヒューマンアカデミーヨーロッパの開校に向けて、学生募集をはじめたのが同年の1月末。「告知時期が遅く、準備も認知度も圧倒的に足りない。失敗を覚悟のうえで見切り発車しました」と馬渡が振り返るとおり、初年度の入学者は想定の40人に対して半数の20人に留まりました。
とはいえ、新しくスタートした学校は活気に満ちていました。「大好きなマンガを学べる」と期待して入学した学生たちに、立ち上げから共に働く熱意あふれたディレクターと通訳兼アシスタント、日本人マンガ講師、プロとして活躍するバンド・デシネ(フランスのマンガ:以下BD)作家などの講師陣ーー。人に恵まれ、第2期生の学生募集に対する反応も好調で、順調な滑り出しを切ったかのように見えました。
ところが、開校から3カ月たった11月、ひとりの学生から「私はこの学校で3カ月間勉強したのに、自分の身になった授業は3時間のワークショップ1回きりだ」と、大クレームが寄せられたのです。
馬渡 「その学生は、フランスの芸術大学BD学科でアートとBDを5年間学んだ経験のある人でした。彼女にとっては、ペンでまっすぐな線を引く練習やデッサンなどの基本的な内容は、すでに知っていること。実践的なことをなかなか教えてもらえず、フラストレーションがたまっていたんです。何をどの順番で教えるか、カリキュラムを根本から見直さないとダメだと痛感しました」
そこで馬渡は、カリキュラムの大手術に着手。3年間のマンガコースの中で、作画などマンガの基礎技術と、1本の作品を完成させるための実践的ノウハウをバランスよく学べるよう、校長や講師陣とも相談しながらカリキュラムを組み直しました。
馬渡 「このカリキュラムの再構築がいちばん大変でした。でも、マンガ教育の土台について講師陣と深く話し合い、早い段階で方向転換ができたことが、今につながっていると思います」
卒業生の夢の実現を応援する――新たに芽生えた目標
ヒューマンアカデミーヨーロッパは、2年目の2016年には約60人が入学し、2018年現在は約200人の学生がマンガやアニメ、ゲームを学んでいます。経営についても、開校3年目の2017年に黒字化を達成し、ほぼ軌道に乗りつつあります。
馬渡のフランス生活も2018年で4年目を迎えますが、「任せていただけるなら、今の仕事をもう少し続けたい」と言います。
馬渡 「第1期生の中には、日本の大手出版社のマンガ賞を受賞し、担当編集者がついてデビューに向けて頑張っている人や、卒業後1年間の専門コースを修了後、出版社と契約する予定の人がいます。学生たちが卒業後どんな道を歩むのか、見届けたいです」
マンガ家のアシスタントからプロを目指したり、マンガ賞受賞後に漫画雑誌に作品が掲載されてプロデビューを果たしたりする日本とは違い、フランスでは出版社と契約を結び、自分の作品が単行本として刊行されて初めてデビューとなります。
そのため、プロのマンガ家を目指す学生にとっては、出版社から「マンガ家の卵」として目をかけてもらうために、コンクール応募や企画の持ち込みなど学校側のバックアップも必要です。
馬渡 「ヒューマンアカデミーは日本でマンガやイラスト、アニメ、ゲーム業界で活躍する人材を輩出してきた実績があり、日本の出版社やアニメ、ゲーム会社とも太いつながりがあります。そうした強みも生かして、今後は卒業生が日本で活躍できるチャンスを広げていくことにも挑戦したいと思っています。 『この学校で学べばこんな道が開ける』という具体的な実績を出して、フランスの中で教育機関としての存在感と信頼感を高めていくことが、今後の目標です」
好きなことを学んだ学生たちの夢を応援する――。馬渡の挑戦は、まだまだ続きます。
※2018年10月に取材した内容に基づき、記事を作成しています。肩書き・役職等は取材時のものとなります。